最後のロンドン

hrkue2007-03-18

今日はロンドンへ買い物へ。今日がロンドンへ行ける最後のチャンスとなる可能性が高い。

そこで、今までやり残していたことをいくつか。

一つ目はテート・ブリテンにあるオフィーリアの絵を見に。
(この絵です↓)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AC%E3%83%BC

昔ロンドンに旅行で来たときも行ったのだが、その時はなんと貸出中で見られなかったのだ。今回はリベンジ。
時間もなかったので、それ1枚だけ見るつもりで(ロンドンの美術館はタダなところが多い)、入り口で地図を見せながら
「オフィーリアはどの部屋ですか?」と質問すると、
「1月までで期間が終わり、今は展示してません。倉庫の中です。」
がーーん・・・。(T_T)


二つ目は倫敦漱石記念館。
漱石がロンドンに留学していた時の5番目の下宿の家の向かいに、漱石研究家の恒松郁生氏が私財を投じて建物を購入し開館したもの。
テムズ川の南側、クラプハム・コモンという駅から徒歩15分くらいの住宅街の1室にある。
漱石のロンドンでの生活が時系列に、当時のロンドンの様子を描いた絵や、関係者の写真、漱石の日記や手紙を引用しつつ説明されている。
これが期待以上におもしろかった。特に漱石の日記や手紙の文章に何度もぶっと噴き出してしまった。

晩に池田氏とCommon(公園)に至る。男女の対此処彼処(ここかしこ)にBenchに腰をかけたり草原に坐したり中には抱き合ってKissしたり、妙な国柄なり

週一回家に行って講義を受けていた、シェイクスピア研究者であるクレイグ先生について、

先生は時々手紙を寄こす。其の字が決して読めない。最も二三行だから、何遍でも繰り返して見る時間はあるが、どうしたつて判定はできない。先生から手紙がくれば差支があつて稽古が出来ないと云うことと断定して始めから読む手紙を省くようにした。

わ、分かる〜!外人のハンドライティングは読めなくて困る。


ロンドン大学で中世英文学の講義に聴講生として参加して、

University Collegeへ行つて英文学の講義を聞いたが、第一時間の配分が悪い。無暗に待たされる恐がある。講義其物は多少面白い節もあるが、日本の大学の講義とさして変わつたこともない。汽車へ乗って時間を損して聴きに行くよりも其費用で本を買つて読む方が早道だといふ気になる。

うーん、留学したがレベルは日本と大して変わらなかった、というのは現代でもたまに聞く話。(もちろんそうでないケースもたくさんあるが。)


5度目(最後)の下宿に移った時に友人正岡子規に送った手紙。

僕は又移ったよ。・・・僕なんか英吉利へ着てからもう5返目だ。今度の処は御婆さんが二人退職陸軍大佐という御爺さんが一人丸で老人国へ島流しにやられたような仕合さ。この御婆さんが「ミルトン」や「シェークスピア」を読んでいておまけに沸蘭西語をペラペラ弁ずるのだから一寸恐縮する

老人国へ島流し(笑)当時の漱石は34歳でした。


それ以前の下宿のおかみさんを表して

あんぱんの様に顔が丸い


私が見れなかったオフィーリア、漱石は見れたようだ。感想は、

なるほどこの調子で考えると、土左衛門(どざえもん)は風流である。(略)何であんな不愉快な所を択んだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり画(え)になるのだ。(略)ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以て、一つ風流な土左衛門をかいて見たい。

土左衛門・・・。確かにそうだけど、オフィーリアという語感とのあまりのギャップ(爆笑)


帰国後その成果をまとめた本「文学論」の序章にはこのような記述。

倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。

当時の不愉快っていうのは、多分今の「むかつく」みたいなニュアンスではなく「つらかった」ってことだと思う。


2年の滞在後、1902年12月テムズ川の埠頭から、日本郵船の博多丸で帰国の途についた。そして船の中から下宿の女主人リール姉妹にこのような便りを出したと云われている。

イギリスみたいな処に二度とくるものか

まさかっ・・。いくらなんでも失礼じゃ・・。ま、「云われている」だからね。


あー面白かった。この毒舌でかつ簡潔で鋭いところが大好き。日記と書簡集買っちゃおうかな。

上には笑えたものを引用しましたが、その他にも、なぜ英文学を専攻することにしたか、とかロンドンでした様々な経験(貧乏暮らし、ホームシック、ヴィクトリア女王崩御、観劇、自転車の練習、スコットランド旅行、真っ暗な部屋の中でノートを前に泣いていたノイローゼと呼ばれた期間 etc)、文学とは何かについて漱石が辿り着いた答え、についての説明があり、非常に興味深いものでした。